今号の山びこ通信(2011/11月号)から、クラスの様子をご紹介します。(以下転載)
『イタリア語講読』 (担当:柱本元彦)
今学期のテクストはルチャーノ・デ・クレシェンツォのものを選びました。すでに邦訳もいくつかある作家で、やさしく読める哲学史などが有名です。デ・クレシェンツォは、「やりくり上手で機智に富む」ナポリ人のなかのナポリ人、その典型として通っています。でも、ナポリで生まれたがゆえに傷ついて屈折した知識人の多いなか、あっけらかんとして健康的にわらう彼は、実際のところ滅多にいない特殊なタイプとも言えます。とりわけ自伝的なむかし語りが魅力的で、ユーモラスな言葉のなかに、かつてのナポリがしみじみとした黄昏の光に照らされて浮かび上がります。うちとけた会話的な文章には、ところどころナポリ方言も使われていますが、気になるほどではありません。いくらか困難な箇所を括弧入れして、ずんずん読み進むことができるでしょう。
何年も前にデ・クレシェンツォに教わったとぼくが記憶している(記憶違いかもしれませんが) <うがった言葉> をひとつ紹介しましょう。ソクラテスは石工だったし、イエスは大工だった(父親のヨセフが大工なのは知られていますから、きっとイエスも若い頃は一緒に働いていただろうと考えて)…というものです。すこし説明すると、要するに、<あちら> では、日本とはちがい、石で家をつくります。つまり家を建てるのは大工ではなく石工なのです。石工が <外側> の壁をつくります。そして大工が、木を加工して家の <内側> を整えるわけです。二人そろって家が完成する…「ヨーロッパ人の精神はギリシア文化とキリスト教でできている」と言えば教科書的な紋切型ですが、こんな <うがった言葉> で語られると、はたとひざを打って納得、感心するしかありませんね。
(柱本元彦)