今号の山びこ通信(2012/6月号)から、クラスの様子をご紹介します。(以下転載)
『漢文入門』 (担当:木村亮太)
1ヶ月ほどの春休みをはさんで、春学期の授業が始まりました。今学期もメンバーは変わらず、Iさん、Kさん、私の3名です。
今学期は、北宋・司馬光の『資治通鑑』(中華書局、1956年)をテキストに、巻頭の威烈王二十三年(B.C.403)「初命晋大夫魏斯、趙籍、韓虔為諸侯(初めて晋の大夫魏斯、趙籍、韓虔に命じて諸侯と為す)」の一条から読み始めました。これは、周の天子がその諸侯である晋国の3人の大夫に、その主君である晋侯とおなじ侯爵を認めたという記事です。もともと、「天子――諸侯(晋侯)――諸侯の大夫(魏斯、趙籍、韓虔)」という君臣関係が成り立っていましたが、これが「天子――諸侯(晋侯、魏斯、趙籍、韓虔)」に変化した、つまり、晋侯と3人の大夫の地位が対等になったことを、この記事は意味します。
ところで、周王朝の32代目の天子である威烈王の、在位23年から一書の記載が始まる、というのは、いささか中途半端との印象を受けるのではないでしょうか。
実は、魏斯ら3人の大夫は、突如として諸侯に格上げされたわけではありませんでした。晋は春秋時代の大国でしたが、その実権は徐々に主君の晋侯の手から、その6人の大臣(六卿)へと移っていきました。六卿は互いに淘汰し、勝ち残ったのが韓、魏、趙の三氏(三晋)でした。三氏は、下克上の末に現在の地位を得たのです。
無論、本来なら下克上は許されたことではありません。ところが、周の天子は、魏斯らを諸侯として正式に認めてしまったのです。これは泥棒にお墨付きを与えるようなもので、世間に示しがつかないのは当然のことです。こうして、謀略と武力がものを言う戦国時代の端緒が開かれ、周王朝は滅亡へと向かうことになります。
君臣関係の崩壊を招き、自らの地位を不安定なものにした周の天子の行為は、非常に愚かです。この記事を巻頭に置くことで、司馬光は、三晋の下克上を戒めるよりも、むしろその横暴を正当化するようなことをした周の天子をこそ責めています。
司馬光にとって、というよりも、儒教道徳のなかに生きた古代の人々にとって、君臣関係は父と子の関係と同様、決して動かせないものでした。そのことをなによりも優先させるため、この記事は『資治通鑑』の巻頭に置かれることになったのです。このことは、この記事の下の「臣光曰」として書かれた司馬光自身の解説で明らかにされています。
授業のあと、Kさんは司馬光の考えがあまりに旧時代然としていることに戸惑っていましたが、現代との比較から見えてくるものも少なくはないでしょう。また、Iさんからは、三晋が諸侯に立てられて、晋侯はどうなったのかという質問が出されました。私たちは事件の主役にばかり目を奪われがちですが、いつもながら、その冷静さには驚かされました(晋は安王二十六年(B.C.371)に三晋によってその領土を分割されました)。
(文責 木村亮太)