今号の山びこ通信(2012/11月号)から、クラスの様子をご紹介します。(以下転載)
『漢文入門』 (担当:木村亮太)
夏休みをはさんで、秋学期が始まりました。だんだん涼しくなってきた夕方に「はなれ」の教室に集まり、今学期も同じメンバーで机を囲んでいます。
このクラスでは、事前にお渡しした漢文のテキストについて、各自で辞書を引いたり、本文に附された注釈を利用しながら予習を済ませ、当日は適当な長さに段落を区切って、交互に発表を担当してもらっています。担当者は一遍本文の訓読(読み下し)をしたあと、その部分をどのような意味に解釈したかの説明を交えながら、現代日本語に翻訳していきます。そのあと、私も同じ個所を訓読でなぞりながら、担当者がつまづいた部分や、読解の要点などを説明します。これで1巡、いつも2、3巡でアッという間に放課の時刻になります。
このとき、担当を外れたもう一人の方はただメモをとるだけではありません。予習ノートを見ながら、自分の解釈と違いがある場合にはどんどん発言をしてもらいます。遠慮してしまうと、自分にとって疑問が残るばかりか、クラスにとっても理解の発展につながりません。広範な知識と探求心を活かして様々な読みのアイディアを提案してくださるIさん、現代的な発想から議論のきっかけを作ってくれる好奇心旺盛なKさん。どれだけ正確に字義を理解したとしても、文章全体の解釈が丸きり同じにはなりません。1週間の準備をもとに三者三様の意見を出し合うと、予習のときより1歩も2歩も進んだ理解が得られる気がします。
今学期は『荘子』逍遙遊篇を読んでいますが、この篇名に対する郭象(東晋・252-312)の注に、次のように言います。「夫れ小大 殊なると雖も、而れども自得の場に放たるれば、則ち物は其の性に任せ、事は其の能に称い、各おの其の分に当たり、逍遙たること一なり。豈に勝負を其の間に容れんや――自分の持ち前を活かせる場所で伸び伸びと過ごすことができていれば、それが他人と比べてどうかなどということを考える必要はない」。自分の持ち前を十分に発揮することが、それだけで素晴らしいことなのだと教えてくれます。
(木村亮太)