『「考える」ということについて』
今回の講師は、廣瀬一隆(かずたか)先生。
以下の宿題を考えてきた生徒たちが集まって、議論を行いました。
質問(宿題)
- 「テレビゲームっていけないことだろうか?」
- 「勉強と遊びはどう違うんだろう?」
- 「インドってどんな国だと思いますか?」
- 「死んだら、どうなると思いますか?」
今回は1と2のテーマで盛り上がりました。(3と4は時間の都合で割愛しましたが、それはまたの機会に)
廣瀬先生には、司会を兼ねていただいたのですが、その進行がさすがに上手だと感じました。また廣瀬先生は、生徒の一つ一つの言葉を受け止めようと熱心で、それも受け止めた後に、必ずレスをつけて投げ返していました。まるでキャッチボールを見ているようで、大変面白かったです。
生徒にしてみれば、受け止めてもらうということには、自己の発言が重んじられていると感じますし、それを別の角度から投げ返してもらうということには、まさにリアリティーが感じられて、うれしいものです。
その意味では、全体的な議論にはなっていなかったともとれますが、最初はそれでいいのだともとれます。もし廣瀬先生のような通訳の存在がなかったら、あの場がどうなるか想像できないからです。
今は小学校の授業でも討論があるそうですが、しかし生徒の誰かが、
「A君が怒っているみたいで怖かった」
と言って、それでおしまいになっていたとしたら、それを先生がフォローしていなければ…。
すべて生徒任せにしておいて「さあ、やってごらん」と単に場を設定しただけでは、無責任でもあります。
口論と違って議論は、自分の立場や自分の意見が正しいかどうかよりも、参加している全員で、最初よりも正しいものに近づこうとする練習であり、またそれをよしとする価値観を培います。しかしその形に至るまでは、少しずつ、毎回フォローし続ける先生は、やはり責任重大です。今回は、そのことが手厚くなされていたという印象を受けました。
「○○君はどう思いますか?」
と、廣瀬先生から当てられると、その生徒は一瞬、大学生の気持ちになったのではないかと想像します。
そしてその後の言葉のボールが、一生懸命なことを喜んで、講師が、
「なるほど。間違っていたらすみませんが、つまりそれは、こういうことですか?」
と、毎回フォローにあたっていたことが、実際の場を良く保っていました。
もし私が生徒だったら、このような場で話をすることは、もちろん緊張はしますが、逆にうれしいだろうなと感じました。
これから先、どこかで『議論』(ディスカッション)の重要性が指摘されるようになったとしても、そう言われるからやってみるという切花を咲かせるのではなく、心からそれが大事だとする『本場』の実現が、山の学校の課題だと考えます。
最後は、廣瀬先生自身が旅されたインドについての自作スライドを発表してもらいました。インドという場所に実際、行って帰ってきた人は、以前と同じ姿をしていても、やはり違う印象を受けます。それは雰囲気とか、「物の見方」とか言うのかもしれません。
インドの旅と、勉強と、『考える』ということが、一体どう廣瀬先生の中では絡み合っているのか?──本人の説明こそありませんが、そこはあえて各人各様にイメージを膨らませる余白があるのだなと思いました。
(レポート・福西亮馬)
Q.だれの言葉が一番心に残りましたか?
- 「64のコントローラーが母に切られた」 ──中2
- ゲームをするのは、「他の物をけずってまでも」したいことか? というセリフが、何となくびっくりした。──中2
- 楽しいことばかりして自分を甘やかしていたら、いつか返ってくる。──中2
Q. 勉強と遊びのこと
- 「勉強」っていったら、社会にでていくための知恵をつけるもの? 「遊び」っていったら、自由にできるもの…。(ごく)普通の人は、勉強やらずに、遊びたいって思う。──中2
- 「勉強」と「遊ぶ」というのは区別はあまりつけない方がいいと思います。勉強の中にも自分の興味あることは「遊び」になると思うからです。──高1
- 勉強とは学びの中に楽しみを見つけること、遊びとは楽しみの中で学ぶということだと思う。本質的にはそんなに変わらないと思うが学校では学びたくないものまで学ばされるので勉強が嫌われている理由だと思う。──高1
- 勉強を、あんなに深く考えたこともなかった。四則演算だけで生きていけるという話が出ましたが、それはないと思う。今、勉強することが学校の成績につながり、進学につながり、社会進出の糧になるので。そう考えない人も、もちろんいるし、本当に最終的には、個々の自由だと思う。言ったように、後悔しないことが大切。──高1
Q. インドの話題
- おぼうさんが一番位が高く、扶助も出るということでしたが、そうすればインドの人ほとんどがおぼうさんになりたがるの ではないですか?──高1