福西です。
2回目の授業では、開口一番「俳句を作りたい!」という生徒たちの希望があり、俳句をしました。
秋晴れのいい時期なので、山の上にある幼稚園の庭に出かけて、そこからの景色を見ながら30分俳句を作りました。こういう時は授業が別のことに発散してしまいがちなのですが、作ってもらった俳句を見ると、さすがこちらの期待に応えてくれるところが高学年だと感心しました。
山の上 空気がとても 気持ちいいな
これはMちゃんが最初にしたためた俳句です。素直で、みんなの気持ちを代弁してくれているように感じました。
葉っぱをね 集めてふむと 音がする
これもMちゃんの俳句です。「集めて踏むと」としているところが能動的で、季節を自分からつかまえに行っているように感じました。頭の中でその情景が動いて見えてきます。五七五のリズムにも上手に乗っています。
赤とんぼ なんで飛ばない 秋なのに
これはH君の俳句です。その前に作った俳句に、今年の猛暑についてのものがありました。この日は蝶は飛んでいたのですが、秋の季語が見つからない焦燥感をむしろその題材にしてくれています。また「あ」の音で韻を踏んでいるのがいいと思いました。
だんだんと 減っていくのは 虫の声
こちらはEちゃんです。「だんだんと」を最初に置いて、何がそうなのかな?と期待を持たせるところが上手です。次の句もEちゃん作です。
春眠に 熱中症で つらい夏
「春眠」「熱中症」と、音読みの単語を二つ並べているところが、漢文のように骨太です。また最後の「つらい夏」というしめくくりがいいですね。どうやらEちゃんはこの夏に本を20冊近くも読んだそうで、もしかすると、そこから無意識に言葉の栄養を吸って、それがセンスとなって現れているのではないかなと感じました。(本読みのことで「すごいね」と言うと、「だって面白いもん」という返事が返ってきました^^(正直去年にはなかった姿で、それが私も嬉しいです))
そのあと教室に戻ってきて、先週の『竜退治の騎士になる方法』の続きを読み、最後までたどりつきました。二週間で読み終えたのは、このクラスでは初めてのことで、いつもとは違う達成感がありました。
そして去年から数えると、『星モグラサンジの冒険』『ポアンアンのにおい』『二分間の冒険』、そして今日の作品と、四つ読み終えたことになります。一つ目の時はもちろん嬉しかったには違いないのですが、最近ではそれが「厚み」をもって蓄積されていくことに、新しい楽しさを感じつつあるようです。
実を言うと、上の四作品については、作者はどれも岡田淳という同じ人です。これには半分私の意図があって(最初はそうではなかったのですが、二作目あたりから手ごたえを感じ、ぜひやってみたいと思いました)、「多読か精読か」という議論がある中で、それに対するもう一つのアプローチとして、「一人の作家の全集を読むような一点多読」を、と考えた結果です。(何も権威付けするつもりはないのですが、確か小林秀雄がそのようなことを言っていたような気がします。それが結局は偏っているようでいて、読書の楽しみを掴む「きっかけ」だったりするのではないかと思うのですが、どうでしょうか)
そのようなことで、このクラスで「一点多読」がどこまで可能か(生徒たちが面白いと思い続けられるところまで)挑戦してみて、それを小学生時代の「おみやげ」にしてもらえればと考えています。
>確か小林秀雄がそのようなことを言っていた
はい、手紙や日記に至るまですべて、と。
これからの展開を楽しみにしています。
福西です。自己レスになりますが、「一点多読」の思い出は、私の場合は『ぽっぺん先生シリーズ』でした。
もちろんそうした「一つのシリーズ」との出会いは、『ドリトル先生』がそれに当たるという方や、『怪盗ルパンシリーズ』を挙げられる方など、それこそ本当に、本の数ほどあると思います。
問題は、それらが「良書」だからといって、すべてを最初から読む必要はなくて、どこか一つのシリーズから入りさえすれば、それが尽きた後に自然と、「ああ、あれは面白かったなあ。次は何か(同じように面白いものが)ないかなあ…」という、興味の方が勝って、次第に読書の習慣が浸透していくのではないかという思いがします。(ここで反省点を加えるとすれば、「次の鉱脈を見つける楽しみ」を大人が先回りして、「これもあるよ」「あれもあるよ」と、おせっかいで潰してしまわないようにする必要があると思います)。
ともあれ、そうした「極端に貫く」ということが、国語の教科書だとその仕組み上できないことなので、より必要性を感じる次第です。(もちろん教科書は教科書としての価値があって、私自身愛着がありますし、詰め合わせとしては素晴らしいと思います)
山下先生、ありがとうございます。
手紙や日記という部分は、えてして「無駄」として除かれやすい部分ですね。その「無駄」が実は最も作品を豊かに味わえる(あたかも作者と話をしているような気になれる)部分であるわけですが…。
たしか宇梶先生が青春ライブ授業でも柳田國男の全集を読んだことが支えであり方向付けとなったことを話されていた記憶があります。やはり読書体験というものは目に見えない分大きいと思います。
もちろんそのようにすみずみまで読んだという本(シリーズ)は、友達と同じで(「真の友達はまれ」だと言われるように)、一人でもいれば幸せで、それがさらに二人、三人といればきっと十分すぎることなのだろうと思います。(もちろん本の場合にその上限はないわけですが(^^))
俳句にせよ、音読にせよ、亮馬先生の方針はすばらしいと思います。型破りとも言えますし、型に忠実とも言えます。俳句には「型」がありますが、その制約の中で、子どもたちの想像力がいきいきと飛翔する様子が窺えます。音読の取り組みも「型」に忠実であることを求めます。子どもたちは、本に書いてある通り忠実に読まなければいけません。しかし一方、子どもたちは「少しでも正確に、間違わずに読もう」という気持ちをこめて取り組みます。「誰がやっても結果は同じ」というのではない、自由な世界がここに広がっています。きっと友達の音読を聞く子どもたちは、息を潜めてその言葉を聞き、目で字を追いかけているのでしょう。喧騒から離れた山の中、子どもの音読の声のみが響き、充実した静寂のときが流れます。まさに山の学校ならではと言える取り組みです。