ひきつづき、『韓非子』姦劫弑臣篇を読んでいます。
「ここではきものをぬいでください」や「Nowhere man」のように、句読点やスペースがないと正しい読み方が分からない、ということは、どんな言語にでもあるではないのでしょうか。漢文(中国語)の場合、一文字(一音節)ごとに一つの単位になっているので、英単語のように長短が不揃いということはありませんが、古い時代の書物には句読点がないのが普通でした。さらに、語彙や文法は時代によって変化しますので、同時代には句読点がなくても理解できたことが、後世の人には分からない、ということが起こりえます。そのため、古い時代の書物を読むためには、まず文章の意味を考えながら点を置いていく必要があります。
およそ2,000年前には現在の形に落ち着いた、と取り敢えず考えられる『韓非子』の場合も、句読点のない、文字だけの状態が続いていました。すると、正しい読み方=正しい句読点の置き方が問題になります。(と、前置きが非常に長くなりましたが…)
清・于鬯『香草続校書』にも『韓非子』の句読について述べた箇所があり、これが(現在一般的に行われていて)私たちのクラスで用いている陳奇猷『集釈』の句読とは異なっていたので、今回は、両者の案の比較から始めました。
そのあと、先日、天理大学図書館で展示されていた太田全斎『韓非子翼毳(よくぜい)』の稿本(原稿)と木活字本についてちょっとお話してから、いつものように授業に入りました。
今回もいくつか読みにくい箇所があって難渋しましたが、「読めませんね」と言いながら考えている時間が、いちばん面白いような気がします。
木村