◇◇◇ご挨拶◇◇◇
←題字に用いたのは、5年生の作品の一部です。どれが誰の絵か、分かるでしょうか?^^
梁川です。
「かいがクラス」の記念すべき1年目を、無事に終えることができました。
なによりも、クラスの趣旨をご理解下さり、ご参加下さいました会員の皆様、保護者の皆様に、この場を借りて、心から感謝を申し上げたいと存じます。
また、かいがクラス開設の機会をお与え下さった園長先生、共にクラスづくりをしてきた高木彬先生、日々の中で多くのご示唆を頂きました、学園の全ての先生方に、厚く御礼申し上げます。
描く心を喚起する、この上なく恵まれた環境でクラスを開くことができ、きらきらと輝く素敵な仲間達に恵まれた幸せを今、ひしひしと噛みしめています。
この1年間を胸に抱き、省みながら、そして、「かいがに出来ることは何か」を常に問い続けながら、何よりも、一人一人の心を見つめながら、2010年度も皆様にとってより実りある時間が生まれるよう、その「しかけ」作りに専念して参りたいと存じます。
今後ともよろしくご指導の程お願い申し上げます。
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さて、今回は、一年間の総括として実施した、「第1回 山の学校かいがクラス作品展(3/12-20)」と、会期中に実施した自由参加型イベント「講評会・かいが自由制作の会(3/14)」の模様をお伝え致します。
「お友達同士で作品を見合い、よさを発見し、讃え合う」。
クラスでは、描くことと同じくらい、このことを大切にしようと努めて参りました。
そのため、みんなが手を動かし、自分の画面と向き合っている中、できるだけ、誰かの発見や工夫、素敵なところを指摘し、共有することを行ってきました。
しかし、じっくりと出来上がった作品を鑑賞し、意見を交換するといった時間は、普段のクラスでは、十分に確保することが叶いませんでした。
これまでの課題作品を一同に並べ、展覧会を行えば、それができる−。
「作品展」と「講評会」は、必ずセットで行おう、ということになりました。
展示作品は、スペースの許す限り、極力全ての作品を展示しました。
会場の奥の正面には、「展覧会の目玉だからね!がんばろう!」と言って、3学期の最後にみんなで描いたA,Bクラスの大作が並びました。
巨大な作品を、壁面に立ち上げるのに苦労しましたが(笑)、はじめて立ち上がったとき、それはもう、この世のものとは思えない神々しさを放っていました!
「うお〜・・・」と言って、彬先生と顔を見合わせてしまったほどです。
宇宙を漂う巨木に、光を放つ巨大な人影。
これらの絵が、展示室(かいが室)前の石段からチラリと覗いて見えるため、終了式・卒業式の行われた12日、13日には、
「うわ、何だ、あれ!?」
「うわー!すごい!」
と駆け寄り、鑑賞する園児たちの姿が見られました。
(羨望のまなざしで作品を眺めるその姿を、作者達にも見せたかったです^^
園児の何人かが「すごかった」「みんなじょうずですね」と感想ノートの1ページ目に書いてくれました。)
園児の保護者の方々も、たくさん見て下さいました。
そして、14日以降も、多くの保護者の方が、足をお運び下さり、ノートに感想を残して下さいました。
ご覧下さった皆様、あたたかな言葉を残して下さった皆様に、この場をお借りして、心より感謝を申し上げます。
(見に来てくれたクラスのみなさん、会場でご挨拶できず、申し訳ありませんでした。
その頃、けんてつセンセイも、とある展覧会の出品にむけ、制作に励んでいたのです。
一般的には「大作(大きな作品)」と呼ばれる、100号サイズ・・・。
しかし、みなさんが、力を合わせて描いた大作が発する強烈なパワーには、まだまだかないません^^;
もっとも、「大作」というのは、作品の大きさだけをいうのではありません。
いつもみんなが画用紙に描いている絵も、夢中で真剣に取組んだ絵なら、どれも「大作」です。
センセイも、頑張りますね!)
☆「講評会・かいが自由制作の会」の模様は、次の記事をご覧下さい。
写真つきでアップしていただき、ありがとうございました。あらためて感動がよみがえりました。
かいがの部屋は少し奥まったところにあるため、遠巻きに中の様子が見えます。「あれ、なんだろう?」とわくわくしながら部屋に向かうことになります。
そこに待っていたのは、外から想像もつかない「かいがの世界」でした。部屋の戸をあけて中に入ったときのインパクトは強烈でした。
講評会はかれこれ一時間近くありましたが、まさに「時を忘れて心ゆくまで絵について語り合った」至福の時間でした。
壁にかかったひとつひとつの絵を先生がていねいに紹介していかれます。絵をかいた作者や他の生徒との間にも、自由闊達な意見の交換が途切れることなく続きました。みな、ほんとうに絵が好きなんだ、と実感できる時間でした。
子どもたちは、日ごろ、大人によってさまざまな評価にさらされています。世の中全体が、評価することを正義と思い込んでいるふしもあります。しかし、本当に大切な評価があるとすれば、それは自分による自己の評価です。
絵の評価とはなにか。つきつめていえば、「絵が好きだ」という言葉以上のものがあるでしょうか。
坂本竜馬の言葉に、「世の中の人は何とも云はばいへ わがなすことは われのみぞ知る」という歌があります。
私が申し上げたいことは、竜馬が言い尽くしています(笑)。
本人の「好きだ」の気持ちがいつかフェードアウトするとしたら(ほとんどの大人はそうかもしれません)、その主たる原因は、大人の評価です。「上手ね」の言葉すら、いつしか子どもの心を鈍らせます。「上手」は「下手」と表裏一体です。(※勉強については、点数による評価の弊害を真剣に考えるときがきています。「よい点を取る」といいますが、どうして100点を超えられないのでしょうか。
センター試験で人生が決まると思い込む若者を量産しています。大人がよってたかって子どもの好奇心をつぶしています。100点をとることが悪いというのではありません。好奇心を枠の中にとじこめることに問題があります。
一生懸命前に進もうとする時計の針をわざと指で止めることと同じです。いつしか、時計は壊れ、針は動かなくなります。
昨年の夏、幼稚園に鉄棒の指導でイゼキさんがこられたとき、ある子をほめて、「むっちゃうまい!マルマルのハナマルや。100点満点、1万点や(笑)」といわれました。すると、その直後から「見てー!みてー!(ぼくも、あたしも、できるよー)」の声があちこちで合唱のように響き渡りました。
技術の指導という段階は、「好きだ」と心から叫び続けられる人に開かれる次のステージです。
試験の結果は100点の中で決まるといいました。しかし、5問のうち2問しかできなければ、40点です。私の父は、ほめるのがイゼキさんなみに名人クラスでした(笑)。「この2問だけだったら、おまえは満点や。この2問のようにほかの問題もやってみろ、そしたら、全部できるようになるぞ」と言うのでした。わがやでは、1問でも「できた」ら、「満点」なのでした。
しかし、これは甘やかしではなく本物の励ましでした。心からそう言ってくれているかどうか、子どもには敏感にわかるのです。
結局のところ、「好きだ」の気持ちを生かすも殺すも周りの大人なのですね。
さて、今山の学校の小学生クラスは、「かいが」クラスに負けず劣らず、ものすごいことになっています(笑)。先日、「ことば」の発表会を拝見しましたが、子どもたちのエネルギーの炸裂ぶりには、ただ口をあけてみているほかありませんでした。このままいくと、どこまでいくんだろう?空恐ろしい気がするとともに、責任の大きさをますます感じます。
こどもたちの「好きだ!おもしろい!」の気持ちを全力で守る!
指導という言葉はあたらないですね。私は「守る」、「守り抜く」という言葉が感覚として、一番しっくりきます。
先生がいつも口にされる言葉のひとつひとつが、私にとっても、目を覚まさせる大切な言葉になっています。四月からも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
エントリーの続編はこちらです。http://www.kitashirakawa.jp/yama/log/eid2309.html?