Essays in Experimental Logic (1916) John Dewey(1859-1952)
「実験論理学論考 ジョン・デューイ」を読み終えて
2016年度は掲題の書を浅野先生のご指導の元、読みました。3年前にジョン・スチュアート・ミルの「自由論」に始まって一連の課題を追いかけてきた流れを少し書きたいと思います。
人との関わりの中で息苦しさを感じることは誰もがもたれる体験されると思います。もっと自由に、しかし世間で語られ、耳にする自由は実体をとらえにくいところのものでした。もう少し手元に引き寄せてつかんでみたいというのが始まりになります。ミルの「自由論」からはおおよそ次のことをつかみました。
ほとんどの人が一生を同じ土地に根ざして暮らす時代、それは階級や地域の人間関係に縛られた時代であり、他者からの支配に縛られた時代であり、そうしたところから人々の自由が始まること。そうした時代には、上位者からの庇護や社会の横のつながりによる安心を得ていたものの、想像すらできない狭い考えに縛られていたことがわかります。個人が自由を得ることは庇護や安心を後退させる一方で、自立、つまりは自身の判断を頼りに行動を決めていかねばならないのです。一つ一つの判断を社会が決めてくれていればそれに従うだけですが、それらをあらためて自分で判断づけることは難しいことです。自身の英知を磨かねばなりません。さて、英知とは何でしょうか。
知識、学問、学歴とはどう違うものなのか、もし英知が人にとっての真なる知ならばそれは何なのかという課題が生まれました。デューイは人の生活・学問において活用される知には程度の差はあっても、その本質は同じものであるといいます。しかし注意せねばならないのはいま感覚として持っている知のイメージの中には知ではないものが多く混ざり込んでいると言います。(デューイは生活の中で人が課題にぶつかり、それを考えて判断づけることを基本に知を語っています。)そしてこのようなことが起こる理由は、知を行使することは実は非常に難しいことなのだと。その難しさの理由の一つは現実に困難を抱えた事態から何が問題なのかを掘り下げるには訓練が必要なものだと言います。人は往々にして従来の考え方が正当な理由なく(あるいは喧伝されるままに)持ち込んでしまっていると指摘します。
また知のあり方としてそれは連続性を獲得していなければならないと言います。それは歴史を積み重ねて積み上げてきた学問や知識と共に知があることを示唆するものです。知識に照らし合わせて判断づけることは、ネット検索で複雑な科学情報を得て判断づける行為にてイメージされます。またこの連続性においてもう一つ主張されるのは知をもって物事を判断する方法の連続性です。ネット検索(デューイの表現は「同じ事例を探しだす」ですが)で該当例を見つけ出すのではなく、情報を集めてそれらをどう分析してどういった論理の元に判断するかという判断方法についてです。判断に使われる論理は一つとは限られませんし、論理がかなう条件も限定されます。それらを精査し、自分で自分の事態についての論理を新規に考え出すことになります。もはやそれは既存の論理ではない論理法則になるのであり、その次への活用が下敷きされることになります。
デューイは自身の論の検証として直感的な判断についての論考をおこなっています。そして人間の身体の感覚は否定されるべきでないとしています。また感覚を認知する意識について人に誤りを与えることを指摘しています。思考は様々な推論をおこないつつおこなわれるものですが、その推論意識的にされるものではない。ある意図や目的をもってするのはない(目的に対する思考は手段を考えるもの)ものだと。平板な言い回しになりますが結果ありきの推論ではないと。
デューイの言う、思考する(知を得る)ということの難しさを自分は体感として持っていました。そして、一連の講読を通して、それがどういったことなのかを言葉にして理解することができ得たと思います。こうして自分が言葉として定置し、その次への課題と進めることがまさしく知なのだと確信いたします。
さて、今や脳科学の分野では思考やひらめき、意識とはどのようなメカニズムで身体上に引き起こされているのか解明が進んでいます。そうしたところに関連した認識・意識を哲学のうえから論じたアンリ・ベルクソンの「物質と記憶」(フランス語講読)を、そして英語講読は、人間は歴史を通じて変化・変革に向かいあっているのであり、そうした人間の特性と知の関係を見つめたエリック・ホッファーの「The Temper of Our Time」を読み始めました。山の学校は知の源泉となっています。
2017.3.9 山下 和子