イタリア語講読クラスで学ぶもの

「イタリア語講読クラスで学ぶもの」

受講生F.N.さん

 イタリア語講読クラスで、ダンテの「新生」を読んでいます。「新生」は13世紀末の作品で私にとっては初めての古典なのですが、イタリア語の柱本先生、ラテン語・ギリシャ語の広川先生とご一緒させていただくという幸運のお蔭で、なんとか楽しく読み進めています。

それでも、日曜日の夜中から月曜日の早朝、その先の一週間の仕事なども気になりつつ予習をしていると、このような古典作品を読むことが一体何の役に立つだろうと思うこともあります。確かに、neの使い方は前よりわかってきたような気がする。ireはandareの古語だと覚えた。labbraは「唇」だけど顔そのものを表すこともある(興味深い)。…でもそれが何か?

教養のため?そもそも教養って何?

イタリアの高校生を疑似体験?(高等学校では「新生」ではなく「神曲」を読むそうですが)

仕事の役には…立たないでしょう。仕事で古語は使わないし(現代イタリア語も滅多に使いません)、仕事相手とベアトリーチェについて話し合うことになる可能性もきわめて低いし…
そんなある日のクラスで、ふと、詩のことからレトリック論に話しが及びました。最初は「詩学?サトウノブオ?これはまたきっとついていけない話し」と片耳で聞いていたのですが、途中で、あっ、佐藤信夫のレトリック論は私の本棚にあったはずと気が付いて、約20年ぶりに本を手に取ることとなりました。
読み返してみたその本(「レトリックの記号論」講談社学術文庫)は、初読時の記憶以上に面白かったうえに平易にレトリックの基礎が説明された章もあり、「新生」の理解にも役立ったのですが、それ以上に示唆的な一文がありました。
「昔からの修辞技法のひとつとして類義累積あるいはシノニミーと呼ばれている表現形式は、いわば、既成の言葉でとめどなく周辺部から塗ってゆき、やがてその中心部に、色とりどりの透明えのぐの重畳によって、おぼろげに濃く暗い形態が現れ出ることを期待する手だてであった。」(前掲書中“読む楽しみ(の記号論)”より)
イタリア語講読クラスで学ぶものはまさにこういうものではと感じます。代名詞の使い方や、古語の単語や、恋慕の表現のひとつひとつは、中心にあるものを現出させるために周りに塗り重ねる薄片であって、本当に学んでいるものは、その中心なのでは。
ただその「中心」が何なのかは、わかりません。イタリアの人びとの特質、主に情熱であるような気もしますし、空間的、時間的な世界の深さを学ぶことであるような気もします。あるいは、学ぶことで現れるものは結局のところ自分自身であるような気もします。いや、そんなにおおげさなものではなくて、単にイタリア語力、かも…
いずれにしてもイタリア語を習いに行って佐藤信夫を再読することになるとは全くの予想外(でもこのようなできごとは一度ではありません)、多くの刺激を頂けるありがたいクラスです。山の学校を運営してくださる皆様に心から尊敬と感謝を申し上げます。12周年おめでとうございます。