福西亮馬

『さんご』――さんごの物語

海はとってもきれい。
だけど、ひとでは、ぼくのてき。
だって、ひとでは、きれいなさんごを食いあらす。
だから、ひとでは、きらい。
さんごは、ふやしても、すぐに
ひとでに、食べられちゃうんだ。
でも人間たちは、さんごをきれいだな、
きれいだなって、見てくれている。

これを書いてくれたのは、実は三年生なのです。三年生は、このクラスでは「年少」の存在です。

しかし一度文章となったものは、作者の年を超えた存在感を持っているのです。

「この詩、だれが書かはったの?」

と案の定、五年生が聞いたので名前を言うと、「えー? 本物(プロ)の人が書いたのかと思った」という反応が返ってきました。

私は、驚きました。あまりにも期待通りの声だったからです。そして、わざと「詩」とは断らなかったのに、五年生の子には、それが「詩」だと認識されたのです。

クラスに一人、いつも時間内に作品を仕上げるという特技を持った子がいます。その子が、今日も「できた」と言って書いた紙を持ってくると、こう言いました。「まだ時間があるし、詩を書く」と。

私は二度驚きました。三年生の子に、五年生の子が触発されたのです。一方、当の三年生の子は、こつこつと「ありの一日」という文章を綴っている…。

『雲』
雲っていいな
ふわふわして 見ている
人のこころを あたたかくしてくれる
とっても やさしい気持ちが 表現されている
みんなも 雲みたいな
あたたかい人に なってほしい (五年生の作品)

なんて素晴らしい子どもたちだろう! もしクラスの中に、(初めての)発表作を冷やかしたい気持ちが抑えきれず、ことばをその目的に使ったなら、こんなことは起こらなかったでしょう。三年生の子が『さんご』の次に、『ありの一日』を書き、五年生の子が『雲』を書くということは。

ここには、子どもたちがことばを守る雰囲気があるのです。子どもたちがクラスを作っているのです。
(2003.7)