福西亮馬
『赤ん坊になったおばあさん』(紙芝居は『あかんぼばあさん』)という昔話があります。おばあさんが若くなる水を飲みすぎて、赤ん坊になってしまう話です。
紙芝居を読んだ後に、一杯の水を用意しました。すると、「ちょっとだけ」とか、「ぼくには、注がんといてや。」という声もあり、それがかえって本物らしく見せてくれていました。ちょうど、「おばけなんて…」と思っても、真暗な廊下に立つとやっぱりこわいと感じる、それと同じような心があるのだなと思いました。
さて今回は、「戻れたら、何才になりたい?」というテーマです。そして一人はこのような願いを書いてくれました。
もどれるなら、3、4才にもどりたい。
3、4才になったら、ゆき先生と遊べるから。
(3年生)
ゆき先生というのは、彼の幼稚園時代の先生です。「若返りの水」によって、彼の時間は戻ります。そして昔のゆき先生と出会えます。…ふうんそうか、という気がしますが、でも、立ち止まって考えてみると、飲んでいないはずの先生まで、時間が戻るのは何か不思議なような気がします。
彼の「若返りの水」は、まわりの世界全体も若返らせる力がある、タイムマシンのような物だったのだろうと思います。たった二行で彼がこのように飛び越えたことが、私にはとても貴重だと思われました。
今の幼稚園にはいない先生であっても、心の中では、いつまでも幼稚園の先生をしている。心のどこかに時間の止まっている場所があって、そこにいる人のことを思い出したのがあの詩なのです。
次は、若くなるのとは反対に、年を取ってしまう紙芝居です、というと、もうおわかりでしょうか?そう、玉手箱で有名な『浦島太郎』の話です。
さて、竜宮城には不思議な部屋があって、その四方の窓からは、春・夏・秋・冬が一度に見渡せるというくだりがあります。
春、夏、秋の光景は、ただただ驚き魅入るばかりです。太郎が最後の窓をのぞくと、真っ白な雪に埋もれた村が見えます。そこから、機織の音が聞こえてくる、そんな気がしたのか、太郎ははっとして、老いた母のことを思い出す、という流れです。
紙芝居を使うと、このあたりの光景が、あたかも時間が止まっているかのように、鮮明に心に残ります。このことから、それぞれの心に思い浮かぶ四つの窓を描いてもらうことにしました。その窓の景色とは、実は心の中の季節です。夏は野球をし、冬は雪合戦をしている。
あるいは虫が好きなら、虫を描いている。これもまた「若返り」のときと同じ、願いの景色なのです。
竜宮城の時間は一年が三百年とも言われるように、ほとんど止まっているそうです。それで時間の外に立って、一度に四季を眺めることができるのでしょう。
「ゆき先生に会える」という言葉は、一言でありながら、時間を飛び越える翼がついていると、私は思います。それほど彼の言葉の中では特別な位置を持つ、古典であると感じるのです。
彼自身がいつか、この自分の詩という、時間の止まった場所から、将来を眺める時が来るかもしれません。そう思って、私はその一言を称揚することで、未来の彼とも語り合っているような気がします。
(2003.10)