宇梶 卓

先日の授業では、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』という絵本をみんなで読みました。最初にじゃんけんをして順番を決め、一人一人声を出してゆっくり音読していきます。「本を読むのが苦手」というK くんも、ここ二ヶ月でめきめきと力をつけてきました。

とりわけ句読点に注意し、文を一つ一つ区切りながら読むことができるようになったのは、K くんの進歩だと思います。また、音読が得意で本を読むのが好きなA くんの存在がK くんに良い影響を与えていて、おそらくK くんはA くんの読み方から音読について学んでいる(「真似ぶ」という意味での「学ぶ」)ようにも思われます。

少し前まで、音読がちょっとしたブームになっていた感があります。『声に出して読みたい日本語』という本が流行したり、音読が脳に良い刺激を与えるという説が唱えられたりと、音読というきわめて基礎的な行為に改めて焦点が当てられていました。

その当否は差しおいても、確かに音読というのは、私の印象から言えば、大変重要なものです。私たちは成長して大人になるにつれ、音読をしなくなり、黙読によって文章を読むようになりますが、実際には黙読それ自体が音読の経験に多くを負い、そして支えられているのではないでしょうか。作家の谷崎潤一郎はその著『文章読本』(中公文庫)の中で、こんなことを述べています。

「現代の口語文に最も欠けているものは、眼よりも耳に訴える効果、即ち音調の美であります。今日の人は「読む」と云えば普通「黙読する」意味に解し、また実際に声を出して読む習慣がすたれかけて来ましたので、自然文章の音楽的要素が閑却されるようになったのでありましょうが、これは文章道のために甚だ嘆かわしいことであります。...たとい音読の習慣がすたれかけた今日においても、全然声と云うものを想像しないで読むことは出来ない。人々は心の中で声を出し、そうしてその声を心の耳に聴きながら読む。黙読とは云うものの、結局は音読しているのである」。

谷崎の指摘する通り、私たちは文章を黙読するにしても心の中で読んでいる声を響かせています。文章の意味を理解するというのは、畢竟いかに文字の中にこのような声を読み取るかにかかっているともいえます。そのためにも、音読の経験の積み重ねこそが、黙読を含めた文章読解の一番の基本になると思われるのです。私自身、今でも一読してよく分からない文章にぶつかると、丁寧に音読することで意味をつかんでいくようにしています。

しかし、子どもの中には学校の授業でも音読を嫌がり、小声でぼそぼそと読む子がいます。これはとても残念なことで、実際には何も恥ずかしがる必要はないのです。

「ことば」の授業では、何ら恥じることなくみんなで楽しく絵本を読んでいます。最初は読み間違え、つっかえることもあります。しかし、学ぶために重要なことは、そういう間違いを怖れないことです。物怖じしないからこそ、いっそうの向上を目指せのではないでしょうか。K くんの上達はまさに、このことを示していると思うのです。
(2005.7)