10周年記念の特別号となる今号には、いつものクラス便りに加え、「山の学校への想い」や「これからの抱負」を語った、講師によるエッセイを多数掲載致しております。(→pdf版はこちらから「山びこ通信2012〜2013 冬学期号」)
また、巻頭文には特別に、中務哲郎先生(京都大学文学部名誉教授 西洋古典学)が10周年のお祝いをお寄せ下さいました。こちらにご紹介致します。
お山の幼稚園から山の学校へ、そして
中務哲郎
山の学校開校10周年おめでとうございます。山の学校の尊い活動を心の中で応援して10年、ということになりますが、園長先生と私のおつきあいはさらに溯ります。現園長の太郎先生とは、西洋古典学の同学・同僚でしたし、前園長の一郎先生には、1980年代の末に子供2人がお世話になっているからです。
お山の幼稚園の特色はあまたあるでしょうが、私が最も深く共感したのは、園児が家から山の上まで歩いて通うことと、園長先生指導のもとでの俳句の暗誦でした。大学生の国語力の低下が嘆かれて久しいのですが、その根っこにある原因は、家庭における幼時の過ごし方ではないかと考えられます。家族のあり方が三世代同居から核家族へと変わり、幼児が家庭内で大人と語り合う時間が激減しましたし、カルタや百人一首といった、言葉の感性を養う遊びもすたれました。習字の稽古を通じて知らぬ間に和歌や漢詩に触れる、ということもなくなったようです。しかし、そのような世の変化は嘆いても始まらず、如何ともしがたいものです。そんな中で園児が俳句を暗誦するは、暗記の習慣を身につけると共に、美しい日本語表現に関心を寄せるための最適の入り口でしょう。
現今の交通事情では、子供が路上で缶蹴り、隠れん坊、縄跳びなどをすることもできません。巧まずして体を鍛えることになる遊びができないのも、今の子供たちの不幸でしょう。しかし、お山の幼稚園の石段を毎日上り下りする子供たちは、木登りができない、真っ直ぐに走れない、というようなことはないはずです。
お山の幼稚園の教育理念は変わっていないと思いますが、翻って、私が30年身を置いた大学の変わりようには激しいものがありました。1991年、大学設置基準の大綱化と称して、一般教育と専門教育の編成が各大学の自由裁量に任されるようになりましたが、その結果は、教養教育のなし崩しの崩壊でした。かつて教養教育の大きな柱であった外国語教育の後退は、とりわけ眼を覆うばかりです。大学は、学生の学びたがらない外国語、英語以外の第二外国語の必要単位をどんどん減らします。学生のやりたがらないものは減らす、という発想は大学入学試験にも現れています。高校生が勉強したがらない教科は入試科目から外す、と。近年の大学はアドミッション・ポリシーと称して、どのような入学生を求めるかを明記しているにもかかわらず、敷居を高くして受験者の減るのを惧れて、大学の求める高い基準を掲げることを避けているように思えます。教養教育にしても、学生に不人気だから廃するというのは考え方が逆で、大学としてどのような教養を備えた人間を育てたいかを示すべきなのです。
もう一つ、180度変わったのが産学協同ということです。大学紛争盛んなりし頃は、学生が産学協同粉砕を叫べば、大学側も聞く姿勢を示さざるをえなかったのですが、今は産官学協同に異を唱える声はどこからも聞こえて来ません。協同によって研究が進み社会に裨益するのは結構ですが、直ちに実利に結びつかない基礎研究が軽視されることと、学生が産(企業)に就くことを求めて3年生の時から就職活動を始める風潮は寒心の極みです。大学が学生に勉強することを望む機関であるのならば、声を上げられない立場の学生ではなく、大学こそ改善に取り組むべきでしょう。
機械技術の進歩は留まるところを知らず、世の中は便利になる一方ですが、私は便利が一つ増えれば、その蔭で失われるものは何層倍もあると考えています。(スイッチ一つでお湯がふんだんに流れ出る、その便利のためにどれだけのエネルギーが費やされるか。〔子供の頃、姉弟4人が朝起きると、母親が薬缶に沸かした湯を四等分して顔を洗わせてくれた。その想い出の方が瞬間湯沸かし器より嬉しい、などとは言わないでおきましょう〕。高速の乗り物で速く目的地に達する、しかしそのためにどれだけ旅情が失われるか。書くことを止めてキーボードの漢字変換のみに頼っていると、どれほど漢字を忘れていくか、等々)。しかし、否応なく便利なものを使い、あるいはそれに使われざるをえないこれからの世の中で、最後まで必要なのは、自分の脚で歩き、自分の頭で考えることでしょう。一郎先生の教育は、幼い子供たちに身を以てそのことを覚えてもらうことであったように思いますし、太郎先生が山の学校を開かれたのもその志を継いでのことであろうと思います。「しぜん」「ことば」「かず」「つくる」・・・シンプルなクラス名称は、子供たちに何が一番大切かを語りかけています。また大人のためのクラスでも、大学では考えられないような高度できめ細かい授業が行われています。大学の現状にあきたらない大人たちも、ここで渇を癒せるでしょう。私などは「教育の根は苦いが、その実は甘い」というような考え方で育てられて参りましたが、山の学校は「Disce libens (楽しく学べ)」をモットーにしています。
大学に不満を感じながら何一つ変えることもできずに退職した者として、山の学校の理念と方法に期待するところ大きく、山の学校のますますの発展を願って止みません。