会員の声〜『イタリア語講読』クラス

昨年の12月よりイタリア語講読クラスに参加させて頂き、もうすぐ1年になります。毎週月曜日の夜、離れの教室に集まるのは三人なのですが、このクラスは実際のところ先生二人に生徒が一人といった趣です。なぜなら、私以外のもう一人の生徒が、ラテン語やギリシャ語を教えていらっしゃる広川先生なのです。私が参加するまでは、柱本先生と広川先生のお二人で進めておられた由。これはいわば、プロのヴァイオリニストとチェリストが手合わせをしていたところに、楽譜もきちんと読めないアマチュア奏者がノコノコとやってきたというようなものです。(受け入れて下さってありがとうございます。)それなのに、私が自分のレベルも顧みず「物語文は、いまいち理解できなくてもなんとなく意味が推測できてしまうから、きちんとイタリア語が理解できていないと読めない、というようなテキストがいいです」などと口走ってしまったもので、昨冬は哲学系の随想がテキストとなりました。柱本先生は、「エッセイだから。寝転がって読むようなものだからね。」「テーマは孔子と論語ということで、内容はご存じのとおり」などと優しい口調で仰ったのですが・・・。読み始めると、イタリア語の難しさと曖昧さ、日本語でも私には理解不能であろう難解な言い回し、突然挟まれる予想外の作者コメント、棘のある厭世観が見え隠れ・・・寝転がって読むどころか、膝に重石を載せて正座を強いられているかのようでした。

しかしながら、この感覚はいつか体験したものだと考えて思い当たりました。十数年前、大学入学直後の1回生の前期、一般教養の英語クラスのテキストがジル・ドゥルーズの「ニーチェと哲学」の英訳版だったのです。いわゆるポストモダン思想の複雑怪奇な文章を解読せねばならず、酷いな、大学の授業というのは学生のレベルを考慮しないのだなと思うと同時に、これは現代教養の世界への扉なのかもしれないと心を熱くしたものでした(その扉は不精な私には開かれませんでしたが)。講師の先生は「今の貴方達には全く理解できないかもしれない。でもきっと、十年後、二十年後に思い出すこともあるでしょう」と仰っていたのですが、こんな形で思い出すことになるとは・・・。

話しが逸れてしまいましたが、このイタリア語講読クラスは私にとって、本当に他に得難い貴重な場です。市井のカルチャースクール的語学クラスでは、スペイン系ユダヤ人思想家がドイツ語で書いた中国思想についての随想のイタリア語訳がテキストになることなんて、絶無でしょう。また、予習をさぼる余地もないし、思ったことはすぐ口にできますし、何がわからないのか自分でもわからず疑問点をきちんと説明できない時でも、先生は的確に汲み取って丁寧に答えて下さいます。そして、「ラテン語ではどうでしょうか、広川先生?」「そうですね、ラテン語では・・」。二人のプロフェッショナルと一緒に学ばせて頂き、こんな有難いことはないなあ、と思う毎回の授業です。ちなみにテキストはその後も、広川先生と私のリクエストを一ひねり、二ひねりした興味深いものを頂いています。

というわけで、私と同じようなレベルのメンバーが一人くらい増えてほしいような、このまま一人で幸運を享受しておきたいような、複雑な気持ちで、毎週、石段を登っています。(受講生N.Hさん)