前回につづいて、今回も曹植「洛神賦」の冒頭部分を読みました。
宋玉「神女賦」や『楚辞』など、曹植にとっても既に古典となっていた名作に倣って書かれたこの作品には、彼が出逢った「洛水の神」の美しい姿が描き出されます。
朝廷から自分の領地へと帰る途上、疲れ果てた馬を休ませていた洛水のほとりで、曹植は一人の麗人を目にします。御者にたずねると、彼は「それは洛水の神でしょう」と答え、さらにその容姿を詳しく教えてくれるように頼みます。
そこで曹植は、華麗なレトリックを駆使して、神女のうつくしさを描写していきます。
ところが、そのなかには現代日本に生活している人にとって、「それは誉めことばなの?」と疑いたくなるような表現もあり、特に私たちが気になったのは、「肩は削成するが若し」という一句です。
これは、「腰は素を約するが如し」、つまり「さらの絹をきゅっと束ねたような腰もと」という、とても色っぽい句と対になっています。
ですから、当然、肩のうつくしさを表現したものであるはずなのですが、「如削成」「削り出したような」といわれても、どのような肩をイメージしたらよいのでしょうか(「なで肩」という解釈が一般的なようですが)。
李善の注によると、「太華山」という山は、まさしく「削り出したよう」だというのですが、まるでイタリアンジェラートのように切り立った尾根をもつ山と、女性の肩はなかなか結びつきません。
受講生のお二人の意見を聞いてみますと、Iさんは、やや丸みを帯びたような肩をイメージしていらしたとのことで、私もその方がイメージはしやすいと感じました。
しかし、そうだとすると、「削り出したよう」ではなく「磨き出したような」というべきのような気がします。
するとKさんが、「鎖骨と肩こう骨がくっきりして、むだなぜい肉のない肩ではないかしら」との解釈を聞かせてくださいました。
神女はしっかりと着物を着ているはずなので、実は素肌が見えていたわけではないかもしれません。
それでもKさんの解釈には不思議な説得力があり、私も思わず引き込まれて、神女の姿を脳裡にはっきりと見たような気さえしました。
そもそもこの作品が「神女との出逢い」というファンタジックなものでもあり、それを読む私たちも、ある程度は自由で柔軟な発想で向き合う方が、より楽しめるかもしれない。
そんな風に感じたひとときでした。
木村