漢文クラス(2011/10/17)

授業を終えると18時すぎ、高台から見える市内の灯りには、なんとも言えない美しさがあります。

今回も『説苑』の復恩篇を読み進め、いくつか続いた晋の文公にまつわる説話はいったん終了しました。文公は春秋時代きっての「名君」のはずですが、どうも失敗が多すぎる…。しかしながら、自らの過ちを認めて、家臣のことばにしっかりと耳を傾ける。それが、名君の条件のひとつだった、ということなのでしょう。

さて次回は、また新しい主人公たちの登場です。前々回のように、次の説話を読むためのヒントを、いくつか書いておくことにします。

●「丙吉有陰徳…」章(p.123)は、前漢の宣帝(B.C.74-B.C.49)が即位した頃の話です。
宣帝は、かの武帝の曾孫という生まれでありながら、とある事情によって、幼少期を不遇のうちに過ごします。それは、彼の祖父である戻太子が、父・武帝を呪い殺そうとしたという嫌疑をかけられ、自殺をしたことに端を発します。
皇帝を呪うなどという大逆をはたらけば、関係者にもその累が及ぶのは避けられません。当時、生後数ヶ月の幼児であった宣帝も、獄に繋がれてしまいます。
このとき、一連の事件の捜査・審議を命じられていたのが丙吉でした。吉は、いたいけな宣帝を見るに忍びず、女の囚人を選んで乳母として世話をさせることにしました。
その後、ひょんなことから宣帝が生存していることが武帝の知るところとなります。宣帝の身にも危険が迫りますが、我が子を殺すことになったことを悔いた武帝は大赦の令を発し、あやうく難を逃れます。吉は宣帝を、その祖母の元へと送り届け、それから20年ほどの月日が流れました。
さて、武帝の後を継いだ昭帝は、嫡子のないまま若くして亡くなります。時の権臣・霍光は、皇室の血を引く昌邑王・賀を後継ぎに据えますが、またすぐに廃位としてしまいました。光の鶴の一声で、すべてが動く時代でした。
吉は、光に気に入られており、戻太子の忘れ形見である宣帝が存命であることを上奏すると、この意見が採用されました。
まるでシンデレラのように、一夜にして庶民から皇帝へと華麗な変身を遂げた宣帝。
自分を皇帝にと推挙してくれた恩人である吉に、関内侯の爵位(名誉職的な爵位)を授けます。このときはまだ、吉が命の恩人でもあることには気がついていません…。

●「魏文侯攻中山」章(p.123-124)は、戦国時代の話。
超大国・晋が分裂して、韓・魏・趙の三国ができたことについては、以前もすこし触れましたが、この説話はそのうちの魏の国で起きた出来事です。
中山攻めの将軍を任されることになった魏の楽羊、見事、中山を攻略して意気揚々と凱旋しましたが、主君の文侯はそれを見て、どうも気に入らないようで…。
「中山」というのは、戦国時代のそれなりに力のあった国の名前で、城壁の中に山があったため、この名がついたとされます。当時の戦争の様子や遊説家たちの策略を記した書物・『戦国策』には、いちおう中山策という篇もあるにはありますが、いわゆる「戦国の七雄」(斉・韓・魏・趙・燕・楚・秦)には名が挙がっていません。

●「平原君既帰趙」章(p.124)も戦国時代が舞台です。
戦国末、やがて始皇帝を世に送り出す秦国の優勢はほぼ決していましたが、残る群雄たちも座して併呑されるのを待っていたわけではありません。いわゆる「合従策」によって、秦に対する共同戦線を張ることが、諸国間では約束されていました。
そうは言っても秦は怖い。下手に歯向かっても滅亡のときを早めるだけ、諸国の君臣には、そう考える者がいるのも当然でした。
そんな中、諸国には国王よりも多くの民衆の声望を集め、たくさんの「食客」(「鶏鳴狗盗」に代表されるような一芸に秀でた者から、将軍・宰相を補佐するような才能の持ち主まで、さまざま。)を養う人々が登場します。
特に有名なのは、「戦国四君」と呼ばれる斉の孟嘗君、魏の信陵君、趙の平原君、楚の春申君の四人です。彼らはいずれも王族の出であり、ひとつの城を治めることを任されているのですが、そこに「食客三千」と言われるように、たくさんの人材を集めました。そうして形成された集団は、現在のことばで言えば、私的諮問機関であり、また諜報機関でもあり、軍事機関でもあり…。ともかく、往々にして、一国のそれをもはるかに凌ぐものであったようです。そのため、国王たちにとっては、ありがたいものである反面、恐ろしくも疎ましくもあったわけです。
そんな彼らは、秦の脅威を誰よりも理解しており、そのため、国を超えた連帯意識で結ばれていました。このような四君の横のつながり、四君と食客との縦のつながりは、「任侠」(現代の「任侠映画」という場合のものとは、ちょっと違う気がしますが)として漢代になってもファンが多かったようで、漢の高祖・劉邦や司馬遷もその一人だったようです。
さて、あるとき、秦が趙に侵攻を開始します。国王の命を受けた平原君は、同盟国の楚に救援の兵を願い出ます。秦が恐ろしい楚王は、しぶしぶながらこれに応じ、春申君を将軍とする軍隊の派遣を約束します(いわゆる「嚢中の錐」のエピソードはこのときのものです)。
また、魏の国からは晋鄙を将軍とした軍隊が派遣されますが、魏王もやっぱり秦の報復を恐れ、兵を鄴の地に留め置くよう命じました。これを知った信陵君(彼は魏王の弟です)は、国王から預かったと偽って割り符を見せ、晋鄙の兵権を奪おうとしますが、鄙の方もそう簡単には騙されません。やむを得ず、手下の力持ち・朱亥に鄙を殺させた信陵君も、兵を収めて趙の都・邯鄲へ向かいます。
楚王との約束を取り付けて、一足先に趙へ戻った平原君ですが、しかしそのとき、秦の軍勢に包囲された邯鄲の命運は風前の灯。困り果てた平原君の前に現れたのは、李談と名乗る伝舎(はたご)の息子。いちおう会ってみることにはしますが、果たして、何か秘策でもあってのことなのか…。

今回も更新が遅れましたこと、お詫び申し上げます。

木村

追記:この記事を「下書きで保存」していたため、みなさんからは読めない状態になっていました。お詫びいたします。